一ノ瀬ポトフの生活

趣味で書いたエッセイ的小話を順次アップしていきます

好きと言えなくて

誰々が「好き」「ファン」、と言いたくない。「推し」も使うのが憚られる。(便宜上)推し、みたいな感じで使っている。

 

好き、という言葉を使った瞬間に、このジャンルで限りなく情報を得ることや、時間やお金を無限に支払わなければならないような…私はそんな義務を感じてしまう。だから言えない。

 

友達に誘われた、興味のある男性アイドルのコンサートで私は、すごく盛り上がった瞬間にキャーと言えなかった。ファンの一部になるのが、怖かったからである。

 

ファンを名乗るのは、好きを公言するようで、私はそれが恐ろしい。

ゆるく、そこまで時間もお金も支払ってないけれど、良いなと思う気持ちがある。それを自分で肯定しきれない。その気持ちを、中途半端だと、浅はかだと誰かに思われる気がするから。

 

逆にハマりにいけない自分もいる。

気になるものに、どんどん突き進んでいけない。知ろうとするのが怖い。

ハマって依存しそうとか、自分のリソースが偏りそうとかもあるけど、一番は、ある程度好きになったら、上述の義務感が強まりそうで怖いのだ。

 

好きなものを聞かれた時、「無趣味」「ゆる勢」「にわか」を自称するのはある種ラクだ。時間や手間やお金…支払ったり、好きでいることに限り…ストッパーを最初から設けている方が、義務感に目を瞑っていられるし、他者からも疎まれない気がするからだ。

 

そんな言い訳と共に、死ぬまでに生で見たいコンサートや、読んでみたい本、気になるアニメ等あるのに保留になったりしている。これでいいのか?

怖い気持ちは有っても、それで好きな気持ちを押し込めたり、楽しそうなものに手を伸ばせないのは、少し寂しい。

 

何かを好きでいようとするにも、あれこれ考えてしまう。

ここまで書いたものを読んで、自分で思ったのは、もっとマイペースな好きを持てたらいいな、ということだった。

 

ゆるく好きでも、ハマっても良くて、どんな形で応援しようが、時間やお金をかけてもかけなくても自分のペースで良いと思えること。

それを、気持ちに蓋をせず、手を伸ばした先で自分で決められたら良い。

 

人の目を気にしたり、葛藤を100%無くすことはこれからも多分不可能だ。それでも、その中で、自分なりの「好き」を持てたらいい。

変わっていけたら、良いと思う。